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単語を覚えても長文読解ができない?

英語

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こんにちは。

最近、後輩から英語の長文読解のコツというか勉強法を聞かれた。TOEICTOEFLで文法問題は比較的得意だが長文読解の分野が苦手だというのだ。

考えてみれば長文読解はどのような試験でも比較的得点の大きな割合を占めているということができる。たとえばセンター試験。僕がセンター試験を受けたのはもう去年のことであるが、長文読解の配点は非常に大きい(文法問題の1つの小問が2点なのに対し読解問題は4~6点、大門4,5,6はすべて読解系の問題)。長文読解がいかにできるかがセンター試験の出来を左右するといっても過言ではないだろう。東進ハイスクールの有名な講師もそんなことを言っていた気がする。

そんな長文読解を攻略するには何が必要になってくるのか。どの先生も言っていたのはとにかく単語力を鍛えろということであった。たとえばマーカーペンを取り出して、○語レベルになればこの単語もわかる、この単語もわかる…と文章を塗りつぶしていくとする。すべての単語が塗りつぶせるようになれば長文読解もできるようになる、そんな風に聞かされていた。

果たしてそれは本当なのだろうか?

僕は高校時代、比較的模試などで英語の点数が取れる生徒だった。ところが、単語力があったかというとまったくそんなことはなく、もともとサボり癖があったせいか毎授業の単語テストではひどい点数ばかり取っていた。僕がいたクラスはほとんどの人がちゃんと勉強しており、毎回ほぼ満点を取ってくる。しかしそういった人でも、いざ実際の模試や試験となると長文読解で点を落とすことが多かった。

そこで僕が考えたのは、「英語の長文読解において『単語力』と点はそこまで比例しないんじゃないか?」ということである。そのことを顕著に表す具体的なエピソードがある。

ある試験の長文読解問題で「コンコルドの誤り」についての話が出題された。これについては以下の記事が簡潔でわかりやすい。

www.plus-blog.sportsnavi.com

この問題は平均点が非常に低かったことを記憶している。そもそも文章中の単語も文の形も非常にわかりづらいものが多く、僕としても読解には非常に苦労する問題だったのだが、僕は平均をかなり上回る点数を取ることができた。なぜか。

「知っていた」からである。周りの友達はこの話についてまったく知らないという人が多かった。しかし、僕はテレビか本でコンコルドについての話を見聞きしたことがあり、そのことを思い出しながら問題を解いていたのだ。友達の中には、そもそも「コンコルド」が何かわからなかったという人も多かった。問題文に注釈はついていなかったのである。もちろん文中で説明はあったが…テーマ自体を知らなければ読むのもきつかったと思う。

僕が受験生となり多くの問題を解いていくなかで、このような経験はかなり多かったことを覚えている。そこから僕が考えたことはつまり

「知識が豊富であればあるほど英語の長文読解は有利になる」
少し過激に書けば
「予備知識が著しく乏しいのに単語ばかり覚えても無駄」

ということである。

考えてみれば日本語の本を読むときだって同じことだ。自分がよく知っている、または興味がある分野の本はすらすら読めるし、逆も同じだ。英語だからといって特別扱いするべきではない。わからない単語が多くたって文章の頭から終わりまで自分がすでに知っている内容であればなんとなくわかるものだし、そうでなくても関連する知識を持っていることに越したことは無い。何が出てくるかわからない英語の試験の文章の内容を理解するには、バックグラウンドに広く浅い知識を持っておくことが必要不可欠だと思った。

ただし陥りがちなのは知識でゴリ押しする解き方がちょっとできるからといって単語を勉強しなくなることで、僕は完全にそれに嵌っていた。センターレベルならいいものの、高度な二次試験となってくるとさらに文意の推測が難しくなってくるのだ。

とはいっても、長文読解ができるようになりたければ英単語の学習より知識の拡充を優先させていったほうがいいだろう。はじめるのが早ければ早いほど良い。受験生になって知識をためようとしても遅い。

雪国に引っ越さないとわからなかったこと

生活

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こんにちは。

四月も半ばにもかかわらず、僕の住んでいる地方ではきのう雪が降った。僕は西日本から移り住んできたのでそのことに関してはとても驚いている。

そもそも思い返してみれば雪国の常識には驚くことばかりだ。ここで、雪国に引っ越してこなければわからなかったであろうそのような事柄について思い出しながらまとめてみようと思う。

1. 車が走るところの除雪
雪が積もって困るところといえば道路や駐車場だ。車が身動き取れなくなっては、大きな被害が出る。そこで、除雪車が雪を吸い上げて邪魔にならないところにばら撒くという作業をする。

道路ならば道の両脇がすごいことになる。田舎では歩道はほとんど歩けないと思ったほうがいい。一度、雪が積もった中で最寄り駅まで歩くといったことをしてみたが、何せ歩道を歩けないので、車道をひたすら歩きつつ車がきたら端によるということを繰り返した。特に田舎では、雪道を歩くのは至難の業である。

駐車場ならば、降り積もった雪を何箇所かに集めるので、そこに巨大な雪山ができる。なかなか壮観である。一日に一回ダンプカーが来てどこかへ雪を運んでゆく。どこへ運んでいっているのだろう?

2. すべる
とにかく非雪国出身者として厄介なのが、雪道はすべるということだ。雪国在住のかたがたは冬場スニーカーで過ごすなどということは基本的にしないみたいだが、僕はまともな革靴も持っていないのでスニーカーで過ごしていた。大学内でこけそうになったこともあった…こける人が大量発生するがまったく笑えない(ちなみに帰省してから大学に戻るとき、夜行バスで駅に降り立ったとき滑ってこけた。そこで雪国の洗礼を受けておいてよかった)。

一番滑りやすいのはどのようなときかというと、これは絶対アイスバーンのときである。つまり雪が降る→路面がぬれる→それが再び凍る、このときが一番危ない。滑らないようにするには、道をザクザクと踏みしめるような感じで歩くことだ。というかブーツなり何なり買うのが一番いい。僕は買わないまま、とうとう冬が終わってしまったが…

3. まぶしい
雪が積もった後晴れると、真っ白な雪が太陽光を反射してとてもまぶしい。これに関しては雪が積もることのない地方の出身の人は驚くと思う。跳ね返った太陽光で日焼けもする。いわゆる雪焼けというやつか。それも少しは関係しているのだろうが、体感気温としては雪が積もった日の方がむしろそうでない日よりだいぶ暖かい。

ざっと思い出してみるとこのような感じだ。機会があればいろんなところに住んでみるのが面白そうだ。

DNAがほぼ同じだから差別はいけません?

生活

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こんにちは。

今回は大学の授業でちょっと引っかかったことを書いていこうと思う。

といっても秋のことにはなるのだけれど、僕は大学で地理の講義をとっていた。より高度な地理を学ぶための導入のような講義だった。したがって難易度としてはかなり低いほうで、高校地理のほんの延長でしかなかったといえる。基本的な世界の地形を学び、人はどのようなところに居住するか、などを学習した上で、アジア、ヨーロッパと各州の地誌に入っていった。

その中で、人種についての話があった。テキストに、「どのような人種でもDNAはほとんど変わらない。だから差別は正当化できない」のような記述があった。正確にはどのように記述されていたかは思い出せないが。

この部分は教授が特に力をこめて話していたところでもないし、軽く触れられるだけで次の話題へと転換していった。しかし、僕にとってこの記述には非常に引っかかるところがあった。

「では、人種によってDNAが大きく違って、能力などに大きな差が認められた場合、差別は正当化されることになるのか?」と思ったのだ。今回このことを思い出したのでこのことについて少し調べてみることにした。

この話題はあまりポピュラーでもない上、僕のリサーチ能力が低く、まとめサイトとかNAVERまとめしか見つけられなかったが、おおむね思っていることに近いようなことを言っているサイトが見つかった。

matome.naver.jp

人権を生物学と関連付けたり、その観点から語ったりすることは非常に危険であると思う。人権の根拠を生物学に求めるべきではないし、生物学で発見されたものごとを人権を理由にひた隠すべきでもない。その二つは完全に切り離されるべきだ。

僕がこのことを考えたきっかけは、あるテレビ番組で蜂の巣の様子を見たことだ。蜂は「超個体である」という見方をされることがある。超個体というのは、集合体がひとつの個体としての機能を果たしているということだ。蜂の例で言うと、たいていひとつの蜂の巣に女王蜂が一羽いて、多数の働き蜂はいわばその女王蜂のために働いて死ぬ。女王蜂と働き蜂の関係は能力からいっても生物学的に対等ではない。

蜂もそのことなんてわかっているだろう。しかし蜂はちゃんと共存している。人間は「人種同士が対等である」という前提がないと共存できないのか。うーん。

作曲をしない人でも作曲フリーソフトは入れておくべき

音楽

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こんにちは。

最近、DominoというMIDI音楽編集フリーソフトを入れた。これが本当に使える。もし作曲をしない場合でも、楽器や歌をするのならば入れておくべきだと思う(ちなみにインストーラーがなく、zipに実行ファイルがそのまま入っているのもいいところだ)。

 こちらの記事で以前にも話題にしたとおり、僕は大学でバンドのボーカルなどをしているが、歌は下手である。歌が下手なのにはいくつかの要素があるが、やはり一番メジャーなのは音程が合わない音痴だろう。聞いたところによると音痴には2種類あり、ひとつは音感がなく自分が歌っている音が合っているのか外れているのかわかっていないタイプである。もうひとつは自分が歌っている音は外れていることはわかっているが、筋肉の使い方がまずく正しい音程が出せないというタイプである。(これを聞いて思ったのだが、バンドのボーカルに純粋に後者の人なんているのだろうか?いるならばメンタルが凄い。)

 で、僕はおそらくどちらのタイプでもあるのだと思う。音感もよくないし、音がわかったところで的確にその音が出せない。そこでまず音感を鍛えるために、Dominoを使うのである。

 

では具体的にどのように使っていくのかを紹介してみようと思う。これはいわゆる「耳コピ」という作業である。

 最初に、コピーしたい曲のメロディラインをしっかり聞く。そして、Dominoの鍵盤の上にメロディーの最初の音をおいてみる。ここではずしてしまうとどうしようもないが、さすがに一音、Dominoの鍵盤の音がメロディーの最初の音より高いか低いかは大多数の人が判別できるはずである。最初の音が判別できたら、同じようにしてメロディーをなぞっていく。何回も再生して、「この音ちょっと長いな」とか「ここで休符だな」などと編集していく。

 次にスケールを調べる。Dominoには鍵盤上にスケールを表示できる機能があり、これは非常に便利だ。スケールとはなにか?とか理論的な話はこの動画をVol.1から順番に見ていったんで十分だと思う。

www.youtube.com

 

厳密ではないがざっくり説明すると、ある曲の中でメロディーにはつかっていい音と使うと不自然な響きになる音があり、それを定義するのがスケールだ。つまり逆にメロディーがわかれば使われている音からスケールを割り出すことができる。割り出せれば、Dominoのスケール表示機能を使ってそれを鍵盤上に示すことができる。

それができたら、最後にコードを付けていく。「コードを付ける」ということに対して僕はかなりビビっていたが、やってみると簡単なことだ(もちろん奥が深いことではあるが「それっぽい響き」のコードを見つけるのはさほど難しくない)。

 まずコードって何か?ということだが、調べても専門用語ばっかりでいろいろややこしいから、僕はもうこう考えるようにしている。「複雑なハモり」。見つけ方だが、基本的にはその小節の中で主となる音を見つけてそれに長短どちらかの3度の音と5度の音を足せばいい(スケールがわかっていればすぐわかる)。それで聞いてみて響きが変だなと思えばいろいろスケールの上で試せばいい。

 メロディー、スケール、コードとできたら、「Uフレット」などのサイトで答え合わせをする。もちろんあっていたりいなかったりだが、やっていくと「自分のコードのほうがよくない?」みたいなことも起こるので、面白い。音楽は数学といわれるが、正解がひとつではないのがいいところだ。

 

以上、このやり方でだんだん耳がよくなってきたのを感じる。曲を聴いていてもいろいろな音が耳に入ってくるようになった。もう少しで「聞いただけで音階がいえる」状態にもなりそうだ。耳コピ、かなりオススメだ。ちなみに専門用語は基本的にさっきの動画のシリーズで全部カバーできる(はず)。僕も「スケール」「度」なんて一週間前まで聞いたこともなかったから。もちろんわかりやすくするため、あまり厳密でない部分もあるようだが、最初から厳密性を求めていっても前に進まない。一回やってみてほしい。

ブログ更新が1ヶ月途絶えたのでブログを続けるコツを教えます

ブログ

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こんにちは。

タイトルのとおり、ブログの更新が一ヶ月ちょっと滞ったのでブログを続けるコツを書いていこうと思う←

 

1. 生活リズム
最初の記事で「ルーティーンを作る」とか何とか言っていたが、結局春休みになるまで大学生活でのルーティーンになることはなかった。うーん、かなりひどい生活を送っていた。ブログの更新を定期的にしている人ってやはり生活リズムがきちんと整っているんじゃないかなと思う。暇なときにやるよーくらいの感じでは毎日続けるのはまず不可能だ。まあ毎日時間が有り余るっていう人ならいいかもしれないが。

習慣にするならやっぱり朝が一番いいのかなと思う。理想を言えば朝早く起きて、3キロくらいランニング。シャワーを浴びた後に一時間くらいブログに費やして、そこから朝の授業に行く。果たしてそんなことができるのか...早起きつらいな。

 

2. とにかくメモを持ち歩く
携帯電話のメモ機能でもいいし自分にラインを送るのでもいいと思う。とにかく、何事に付けても感じたことをその瞬間に書き留める力が必要になってくると思う。あとで記事を書こうと思っても、何を書こうとしたのか後になって大概忘れてしまっている。夜に見た夢を翌朝になって忘れてしまっているみたいなもんだ。

 

3. アクセス解析をたまに見てみる
1日10アクセスくらいあるやんけ!今日もだれかはこの記事をみてるんだな。

 

4. ブログってすごくね?と思う
ブログってすごくないですか?だって僕らはこの若い時期からブログを書き始めてるから、あの時僕こう思ったっていうのが年取るまでデータベース化されていくんですよ。はてなブログが急にサービス停止したりしない限りね。すでに中学生で有名ブロガーをやっている人なんてのは、中学生~大学生の分、僕よりも多くのデータベースを蓄積できることになる。しかも日記と違ってうまくいけばいろんな人に見てもらえるし検索もできるし。あるいは死ぬまでの1記事くらいは検索で一番上に出てくるような記事になるかもしれない。

たしかに収益化とかすごく興味ありますよ。けどそれによって書きたくもないようなことを書くのならそれってブログである意味がないのでは?自分の考えがずっと残るってある意味どんな収益よりも財産になるのではないか。やっぱりブログのすごさは蓄積されるということ。自分の青さとかそういうものを全部後から振り返れるということにあると思う。

このように考えれば、何ヶ月更新が途絶えようがそれは失敗じゃないんだよね。自分が死ぬまでのデータベースをひとつひとつ積み上げていっているだけだから。

 

とりあえずこれからはもっと更新したいですけどまあ気楽にいきたいです。一日多記事更新でも問題ないぜ。

スター・ウォーズ最新作、もはやファンも「作り手」の一部

ニュース

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こんにちは。

だいぶ前のことになるけれど、スター・ウォーズの最新作を観た。見終わった直後の感想は、「映像めっちゃ変わったな」と、「少しオマージュというか、既視感が強すぎない?」だった。友達と観に行ったのだが、後者の感想については僕より何倍も映画ファンの友達も口にしていた。

正直、ネットのレビューも反応はあんまり芳しくないんじゃないか?と思っていた。ところが予想に反して好意的な評価が多い。おおむね、「ダメダメだった新三部作から、エイブラムスが正しい方向に導いた!May the force be with you!」みたいな感想が多かった。

僕はスター・ウォーズはまったく世代ではないし、正直映画館で見たのはエピソード7だけ、あとのものはすべて何年か前にNHK BSでやっていた一挙放送のときにテレビで録画して観た。だから新三部作、特にエピソード1を見たときのがっかり感も全然なかったし、むしろ新三部作のほうが、キャラクターの心情が深く描かれているような気がしていたものだ。だってエピソード4のルークいろいろ立ち直り早すぎじゃないですか?

で、そんな完全に外様(だけどスター・ウォーズは大好き)な僕が思うのは、続編って難しいな…ということだ。とくに最初のものが、内容に付随していろいろなものを引き連れちゃった場合には。

uselesslessons.hatenablog.com

インタビュー記事で読んだのだが、生みの親のルーカスはエピソード7をあまり気に入っていない上で「ファンは喜ぶだろうね」と語っている。ルーカスの構想ではスター・ウォーズは「家族の問題を扱ったメロドラマ」だったが、ファンは「宇宙が舞台の叙事詩」ととらえているというのだ。

作品がいったん手を離れるとそれは作者ではなくファンのものになる。しばしば、ファンは映画館への高揚感とか、一緒にいた人とか、「思い出」をその作品にこめる。エピソード4公開当時の話をネットで見てみると、スター・ウォーズはそこらへんがすごかった映画なんじゃないかなと思う。そうなってしまえばその作品は決して壊してはいけないものになる。思い入れのあるファンほど、愛情ゆえに「こうでなくてはいけない」というのをガチガチに固めてしまう。

僕はロックバンドのOasisを思い浮かべた。大ヒットした1作目、2作目の後、3作目のアルバムは路線変更した結果かなり批判された。こういう例は枚挙に暇がない。

これは確かに難しいところである。映画や音楽はファンのためにあるんだよ!といわれれば確かに反論できない。でも僕はファンはもう少し柔軟であるべきなんじゃないかなと思うのだ。

なぜなら、今って発達したSNSがあるからファンの批評の力がものすごく強い。配給会社もレコード会社も作品が売れなければいけないから批判されそうなものがなかなか出せなくなってしまう。映画とか音楽を芸術としてみるならば、これはとても痛手じゃないだろうか。

ファンももはや芸術作品の作り手の一部になるのだ。たぶんこれからはそれがますます加速する。

植物が人間を利用した

書評

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こんにちは。

少し前のことにはなるが、ベストセラーになっていた(らしい) Sapiens: A Brief History of Humankindという本を読んだ。この本のすごいところは、人間が現在に至るまでがとても総合的にまとめられているということである。生物学的な話から経済の話までありとあらゆる分野のことが一冊にまとめてある。おそらく日本語訳もされるだろうと思う。

今回はそんなSapiensの中から僕が印象的だった部分について。

「人間が植物を栽培して利用しているというより、植物が人間を利用して生息域を広げたのである」
これを読んだとき、「ああー」と思った。自分の思慮の浅さを思い知ったというか、いかに人間中心で物事を見ていたのかというのがよくわかった。

確かに、言われてみれば納得がいく。人間が栽培を始めたことで、どれだけ多くの植物が生息範囲を広げることができたか。人間がいなければおそらくジャガイモは南アメリカから出ることはなかっただろう。植物が時間をかけて人間好みの味に近づいたり、人間が栽培しやすいように進化したりという可能性も高いように感じられる。

人間としてのプライドが、時に科学的な思考を鈍らせるという例は僕が学んできただけでも数多い。たとえば天動説などだ。僕は決して当時の科学者がバカだったのだなどという偉そうなことを言うことはできない。当時は今とは段違いに人間の絶対性というものが確実視されていた、それだけのことだ。

そう考えると科学の進歩はほぼイコール人間の絶対性の否定ということになるんじゃないかな。地球は宇宙の中心という考えが否定され、太陽系は宇宙の中心という考え方が否定され、サルと人間はほとんど遺伝子的には変わらないということが発見され、きわめつけは地球外に人間と同等以上の生命体がいるということもかなり本当っぽい。

この世界が誰かもっと高次の生命体がプレイするゲームの世界だったら?のような想像を誰しもしたことがあると思う。つまり、ポケモンのゲームで僕たちがポケモン同士を戦わせるように、誰かが人間を操作しているのだ。僕が今このようにキーボードを打っていることも、そいつの操作だ。将来誰と誰が結婚するとか、そういうのも全部そいつが決めている。

そいつが人間でプレイすることに飽きて、とりあえず人間を一掃しよう、と思えば僕たちはそれにしたがって消えちゃうしかない。全部そいつの気まぐれだ。いつ何が起こるかなんてわからない。そう考えるとせめて後悔のないうちにいろんなことをやっときたいよね。「イタい」なんて言ってないで。